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 『高知音楽シーンの今』(3) 「CLUB」 DJ Nozzy

DJ Nozzy

 3号連続インタビュー企画「高知音楽シーンの今」。ラストを飾ってくれるのはDJ Nozzy(39)。

 終わらない週末を彩ってきたディスコ〜クラブ。DJのスピンする曲は「Move your body!」と言わんばかりに、ダンサブルなビートを刻んできた。高知の若者たちが求めた快楽の1つが、この音楽世界である。

 ターンテーブルでレコードを回し始めて二十数年。今もさえわたる選曲とテクニック。高知のトップDJの1人であり続ける男に、クラブシーンの過去現在、そして未来を語ってもらった。

 ■“箱DJ”の時代

DJ Nozzy

 —高校卒業して、ディスコに就職したころ。一九八〇年代後半って、まさにディスコの時代。

 「全盛期でね。回しよったのはディスコに備え付けのレコード。結構あったで。七〇年代ディスコソングはあんまりなかったね。八〇年代にビルボードに入ったR&B、ソウルで(ドラムが強く)打っちゅうやつ。ニュー・エディションとか。ほぼ12インチ。アルバムをスピンすることはなかった。

 ただね、ピークタイム用の盛り上がる曲は先輩用。オレらペーペーはそのほか(笑)。先輩は厳しかった。ミックスのピッチがずれたら怒られたし。厳しすぎて辞めていく人も多かった」

 —ミックススタイルは?

 「ロングミックスというよりは三十二カウントとかで混ぜていく。昔の曲は二回ブレイクがあって『早掛け』で盛り上げちゃおって時は、一回目のブレイクで次の曲入れて。ちょっと『ため』ちゃおって時は二回目のブレイクで。ベースラインが消えた時に、次の曲のベースラインを入れたりもした。チョッパーベースの音がつながっていく感じやね」

 —お客さんの入りとかは?

 「週末は三百人。看板に電気つけて午後六時オープン。八時ごろからお客さんがどんどん入ってきよったね」

 —九〇年代に曲が変わるでしょ。

 「うん。ヒップホップがきた。映画で人気が出たパブリック・エネミーとか、デ・ラ・ソウルとか。ミドルスクールやね。それでも…やっぱり八〇年代から引き続きユーロビートが強かった。そのへんのが九〇年代前半に一気にきて。でもその後、バブル崩壊で僕のおった箱(ディスコ〜クラブ)も含めて、高知は箱がなくなっていった」

 —当時のDJって、基本的に箱の従業員。それ以外にDJは?

 「おらんかった。DJやりゆう人は高知市で数人。いくつか箱があったけど、もう、ほとんどが知り合い」

 —ビッグネームを呼んだりは?

 「九〇年代半ばに呼びだしたね。NAO NAKAMURA。DUB MASTER X。ニューヨーク帰りのNAOはかっこ良かったなぁ」

 —箱がなくなってどうしました?

 「放浪(笑)。カフェ・バーとかにDJの売り込みしよった。その後、ちょっと大阪行って。すぐ帰ってきたけど」

 —九九年、高知で自分の箱を始めたころはどんな曲が人気でした?

 「オレのメーンはハウスとダンスクラシックス。ボディ&ソウル(七〇年代後半から今なお活躍中のDJ、フランソワ・Kらがアメリカで開いていたパーティー)がはやっちょって。ボーカルハウスとか、ディープ、パーカッシブなハウスが人気があった。一方でサイバートランスとアッパーなハードハウス。この二系統やったかな」

 —DJの数は?

 「増えたね。ただ、箱専属のDJはほとんどおらんなった。DJが箱を借りてパーティーをやる時代になった」

 ■多様化する音楽

 —近年、高知のクラブシーンってどうですか?

 「盛り上がっていく、というのは難しいろうか…少子化で、若い人の絶対数は少なくなったし。かつ、遊びの幅は広くなった。ディスコしかなかったオレらの世代とは違うて。曲も、ね。今は個人個人、聴く曲がバラバラで大ヒットが生まれにくい。キラーチューンがない。変わらんろう? ちょっと前とキラーチューンが?」

 —アンダーワールドの「ボーン・スリッピー」、いまだに強いですよね。

 「曲に関する情報も多い。先週、フランソワ・Kが回したやつもインターネットですぐ分かる。パラダイス・ガラージ(七〇−八〇年代、ニューヨークにあった伝説のクラブ)でかかった曲もCDで再発されて簡単に聴ける。東京だろうがニューヨークだろうが、高知だろうが、それは一緒」

 —その分、DJはやりやすくなった。若いDJ、増えましたよね。

 「レコードもネットで探せる。レコードがなかなか手に入らんやつはCDで出てたり。今はCDでもいい感じでDJできるきね。機材も良くなった。性能のいいやつが安く手に入る」

 —最近、デジタル機材を使ったアーティストのライブも始めたでしょ。

 「それも、機材の進化のおかげ。高知にも、音源は作りゆうけど発表する場所がない、という人はおるきね」

 —いろいろ便利になって良かったんですが…人と人がバラバラになってきた感じがします。

 「確かに、内にこもっていく傾向は強いよね。こんな話、聞いたで。成人式終わってどこ行くかというたらネットカフェやと。曲聴くのも車でCDかけたり、携帯端末でヘッドホンして…」

 —一人で楽しむものになってます。

 「そうじゃなくて、クラブで大音量で聴いてほしい。いろんな人と。雑誌でも、ネットでも分からんものが、ここにある。特に、生身の人とのつながり。クラブは音楽を聴く、踊る場所でもあるけど、人とつながる場所やき。年齢も仕事も役職も関係ない。そういう楽しさ、面白さは消えんと思う」

 —キラーチューンを見つけたいですね。今、この瞬間の。

 「みんな一緒に盛り上がらせちゃりたいね。若いDJはね、なかなかええ曲かけゆうで」

 —箱専属時代と違って、DJもクラブに遊びに来てるでしょ。そこで雰囲気つかみ取ってるんで、選曲とか「今」を外してないし、プレイもうまい。

 「内へこもってないね。いろんなところでカルチャーショックを受け、先輩や同年代のDJの選曲とか技を見て、自分で考えゆうね」

 —希望、ですね。

 「DJはますます進化する。シーンが今後、盛り上がるか…後は遊びにくるクラバー次第やろうか」

 —音楽ジャンル、カテゴリーが細分化されすぎて、それごとにパーティーが開かれてる。個人的には、もっと壁をなくしてオールジャンルのパーティーもあってほしいです。

 「それも課題の一つ。そのジャンルを突き詰めたものをやる。一方で壁を崩すことも必要やね」

 DJ ノジー

 1968年、須崎市生まれ。高校時代にDJを始め、87年、高知市でも有数のディスコだった「マハラジャ」に就職。傍ら、ラジオでプレイを披露したり、ランDMC高知ツアーのフロントアクトも務めた。89年にはDMC西日本決勝進出。99年、自らクラブ経営にも乗り出した。

 【注目アーティスト】声が紡ぐ哀感漂う歌 Cleep

Cleep  水平線に沈む今日が
 涙で終わらぬよう
 僕らは歌うのさ
 綺麗な歌を
 誰に伝えようか

 高知市のキャラバンサライ。哀感漂う歌が会場を包んでいく。高知の男性3ピース、Cleep。曲は、このほど発売したシングル「水平線」だ。  声がいい。ボーカル・ギターの廻角拓司(25)は「気に入らないです」と言うが、透明感のある高い声は、せつない詞とメロディーにぴったり合っている。

 ベースの山崎新平(25)。ドラムの矢野裕司(25)。三人は高知工科大学の同級生。軽音楽部で出会い、バンドも結成していた。そして—廻角は大学を卒業し、京都で就職。山崎、矢野もそれぞれの人生を歩み始めた。

 そこにバンドはなかった。

 一年後。廻角が高知へ戻ってきた。仕事を終え、家に帰って一人で楽器を弾き、録音するなどしていたが「やっぱり、僕のことをわかってくれる連中とバンドをしたい」と。活動再開。四人編成で別の名前を名乗っていたが、昨年三月、Cleepとなった。

 「音楽って、形がないじゃないですか。自分が手を加えて、いいものができる。その可能性が無限にある」と廻角。「確かに犠牲にしているものがあります。仕事とか…それでも音楽をやりたい」

 「水平線」は、その決意の歌にも聞こえる。ラスト、もう一度繰り返される最初のフレーズ。一語だけ変えた言葉に思いの強さを感じる。

 僕らは歌うのさ
 綺麗な歌を
 君に伝えようか

 【DISC評】90’sの名盤たち

サニーデイ・サービス「東京」

 ▼ハードフロア「TB・リサシテイション」 アシッドハウスリバイバルを代表するユニットの、1993年の1st。ゆっくりしたビートにオーバードライブする、TB—303のトランシーでアシッドなフレーズ。そこからじわじわと音が増え、ドラムロールで盛り上げる。マスト!(いの町、タマリコウゾウ)

 ▼サニーデイ・サービス「東京」=写真 70年代的サウンドをベースに日本語ロックを成熟させた、96年の傑作2nd。「恋におちたら」「あじさい」「青春狂走曲」…昨年11月、高知市での曽我部恵一バンドのライヴで聞いた10年ぶりの曲たちに、心も体も踊りっぱなし。今んとこは、まあ、そんな感じなんだ〜。(編集部、露格闘店長)

 ▼レディオヘッド「OKコンピューター」 90年代UKロック、最強の1枚。97年にこのアルバムでトム・ヨークが歌った「絶望しかない未来」は、豪華にギターが鳴り響いていた「90年代UKロックの終焉」の予告でもあった。ちなみに僕のペンネームはこのアルバムタイトルから。(編集部、OK電算機)

(2008/03/07)



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